戯曲『マーキュリー・ファー』の舞台を観て、心に留めておきたいこと、気になることなど思いつくままに書いていきます。
※あくまでも一個人の解釈です
マキュファの2時間15分は恐ろしい体験の連続だ。
フィリップ・リドリーはたぶん人間のおぞましさを取り出して見せるのが好きなんだと思う。
ナズのスーパーマーケットでの体験は当時のイスラム国の残虐性を思い起こさせる。
パーティゲストが何を企てているかわかるにつれ、こみ上げてくる嫌悪感。
エリオットが言うように、そう「こんなやつはいくらでもいる」。現実の世界にも。
最初の3公演くらいまでは、こういう救いようもない人間のクズっぷりにうんざりして
もう観たくないと思ってしまっていた(でもすぐ観たくなるんだけど)。
ただ、今日書いておきたいのは、その逆のこと。
こんな荒み切ったごみ溜めのなかでも、人は美を求めるんだということ。
エリオットはバタフライの代金としてナズから大英博物館から略奪したと思われる
アステカの器(心臓をナイフで抉り出している絵が描かれている)を入手して、
寝室に置いて大事にしているようだ(それを説明するダレンの必死さが可愛いよね)。
さらに、皆に恐れられているほどのスピンクスが、素晴らしい骨とう品を見つけたと頬を緩めながら嬉々として話すのが例のミノタウロスの像だ。
彼らは金儲けのために美術品や骨とう品を集めているのではなく、
きっとエリオットもスピンクスももともと芸術を愛する心を持っていて、これらの戦利品に心慰められているに違いない。
どんなごみ溜めの中で生きていても、人は美しさを希求する。
おぞましいことが続く舞台の中で、ちらっとそんなことを感じながら…
でもそれゆえにやっぱり心が痛む。
だってエルは考古学者になりたかったのだから。
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